3月11日に東北地方及び北関東を襲った巨大地震から1ヶ月以上がたったが、未だ被害の全容も明らかにできないほどの甚大な災害となった。私は阪神大震災当時、神戸市須磨区に住んでおり、当時のことをいろいろ思い返しているが、あまりの状況の違いに驚いている。今回の震災は阪神とは別物であるという認識が必要であるが、一つの目安にはなるだろうと思い、当時の新聞、週刊誌、ネットの情報の他、自身の体験も含め1年間の復旧経過を整理してみることにした。なお、数字は資料によりばらつきがあるため、参考として見ていただきたい。
◆地震発生時
日時:平成7年(1995年)1月17日午前5時46分
震源:明石海峡、深さ16km
地震の規模:M7.3
最大震度:震度7の激震
◆1週間後
死者:5千人を超す。
避難者:30万人
倒壊家屋:7万件以上
電気:全域で応急復旧が終わる。
水道:63万世帯で断水。
ガス:86万世帯で供給停止。復旧が始まったところ。
電話:6万回線不通。各社被災地の加入者に基本料金を無料にするなどの措置。仮設の電話に長蛇の列。
交通:各所で不通だが、都心では代替えバスが運行を開始。ただし渋滞が激しい。
仮設住宅:受付が開始される。5万戸が必要との見方。
自衛隊派遣:1万9000人
物資:コンビニ、スーパーは2?3日の間、商品がほとんど無くなったが1週間で一部の商品を除き回復。保存食、飲料水の他、バイク、自転車、カセットコンロ、ブルーシート(雨漏り対策)、ポリタンクなどが入手困難。
為替:1ドル99円台。円安が懸念されていたが大きな影響はなかった。(東北では円高が進んだ。)
◆2週間後
死者:5200人
避難者:25万人
水道:40万世帯で断水中。
ガス:被害世帯の約1割が回復。
電話:全域で応急復旧が終わる。
交通:倒壊した阪神高速神戸線の瓦礫の撤去が終わり、高架下の国道43号線の通行が可能となる。(早い。)
仮設住宅:第一号が淡路島に完成。その他の地区でも順次入居が開始。
まちづくり:復興特別立法が固まる。区画整理促進区域の制度を取り入れ、2ヶ月間の建築禁止などが盛り込まれる。2月中旬国会に提出。
◆約1ヶ月後
死者:5400人
避難者:21万人
倒壊家屋:8万7千件
水道:18万世帯で断水中。
ガス:56万世帯が供給停止中。
交通:市営地下鉄は一部の駅を除き全線再開。
まちづくり:建築制限がかけられていても自力でプレバブ小屋などを建設する人が現れる。
瓦礫:瓦礫の撤去が進んだのは、道路や都心部の倒壊の恐れのある建物、大規模な建物など。ほとんど手付かずの所が多い。
◆約3ヶ月後
水道:一部臨海部を除く全域で応急復旧を終える。
ガス:復旧を終える。
交通:JR線は新幹線を含め復旧。
瓦礫:焼け野原になった長田区の菅原通り商店街など、広域的な瓦礫の除去も終わりが見え始める。手付かずだった建物もこの時期には多くが解体に入っている。神戸市内の2ヶ所の処分場では間に合わず、急遽ポートアイランドの第2期造成地を仮置き場として利用した。
まちづくり:被災地の各所で自治会、行政、コンサルタント、マンション管理組合などによる会合が開催され、復興まちづくりが本格化する。
ボランティア:この頃から激減し、避難住民が自治会を組織し仕事が引き継がれる。
◆約6ヵ月後
下水道:復旧は一番遅く、5ヵ月を要する。
交通:8月下旬には私鉄もほぼ全面復旧。
まちづくり:6月神戸市復興計画策定、7月兵庫県復興計画策定。民間も含め総額17兆円規模。
◆約1年後
死者:6400人(80%以上が建物等の下敷きになる圧死、続いて火災による焼死)
避難者数:約10万人(仮設住居等入居者や公園のテント、公民館、親戚宅等で暮らす人)
倒壊家屋:10万7千件
瓦礫:ほとんど見られない。
仮設住宅建設数:4万8300戸
初年度復興予算(国):1兆223億円
|