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後藤新平 日本の羅針盤となった男/山岡淳一郎著

草思社/2007.3.2発行

 本を購入するときは、新聞や週刊誌等の書評を読むか、書店で序やあとがき、さらには目次に目を通して、テーマの背景と結論、そこへ到達する展開を踏まえて購入することが多い。都市計画を仕事としている者にとって「大風呂敷を広げた」後藤新平は「踏まえておくべき人物」である。ちなみに、名古屋の都市計画になると石川栄耀や田淵寿郎がそれに該当する。よってタイトルから「後藤新平」であり、あとがきに「後藤新平は、日本で希有な公共の思想を体現した政治家」であり、「公共の思想は、権力者に不可欠な資質である。権力が私されるところに未来はない。」とする文言に惹かれた。
 徳川末期、1857年岩手生まれの後藤新平は、福島で医学を学び、医者として社会人をスタートさせている。そんな彼がいきなり都市づくりを始めたわけではない。西南戦争での凱旋兵のコレラの蔓延の惨状を踏まえて、日清戦争での帰還拠点である広島に大検疫施設を1894年に建設し、「もうひとつの戦争」をみごと終息させた。
 その時の上司である児玉源太郎が台湾総督に赴任すると、後藤新平も文政局長として1898年に同行する。当時の台湾には、「阿片の習癖、島民の叛乱、群賊の横行」のなかでの統治を余儀なくされたが、ここで後藤新平は総合的な島(都市)づくりを行う。そのためには資金が必要であり、財源を見出すため、台湾事業公債発行(鉄道・築港・土地調査の三大事業と吸水・監獄舎改築・官舎建築の付帯事業)と台湾銀行創設に成功させ、阿片・樟脳・塩・酒の専売事業による歳入増加、土地調査による地租の確立を成し遂げていった。そんななかで台北の近代都市づくりも着手される。上下水道、道路、市域の拡大であり、インフラとしての公衆衛生と都市計画の一体化である。まさにソフトな都市経営とハードな都市建設の一体化をみごと台湾で成し遂げたといえる。
 この経験が後の満州鉄道総裁に就任した際に、満鉄調査部の設立、鉄道の広軌化の実現、長春の都市計画、大連築港、旅順の教育機関の創設など次から次へと手を打っていった。その後、第二次桂内閣の逓信大臣、寺内内閣の内相兼鉄道院総裁に就任し、どっぷりと政治の世界に入り込む。いずれもインフラストラクチャーに係わる職務についている。
1920年に東京市長、1923年の関東大震災直後に、第二次山本権兵衛内閣の内相兼帝都復興院総裁に就任して、帝都復興案を提出した。@遷都せず、A30億円の復興費、B欧米最新の都市計画の導入と日本にふさわしい新都建設、C地主の相応の負担がその内容である。地方長官会議での後藤新平の演説は「公共」の思い、さらには「公」と「官」を峻別している点が彼の真骨頂である。しかし、ポリティカルバランスは後藤新平にうまく働かなかった。「土地の『絶対的所有権』という壁」を突き破れず、この30億円という大風呂敷は切り刻まれてしまった。
 今日の政治家の中に、それだけ大風呂敷を広げられる政治家がいるのか、あるいは「私」を超えて「公」のために奮闘している政治家がいるのか?事務所費の二重計上や補助金不正受給などで大臣を辞職する時代である。もちろん後藤新平は生きてきた近代日本の舵取りの時代と今日とは異なるであろうが、志があまりにも小さい。
 それは政治家だけに限らず、我々都市プランナーの世界でも同様である。大風呂敷を広げるだけの構想力あるいは想像力をもっているか?ハードだけでなくソフトを含めたトータルな都市をつくれるか?様々な圧力がかかるなかで、実現できるだけの信念を持っているか?等々である。
 丁度、胆嚢炎で入院中に読んだ。体力には自信があっただけに、ややガックリ来ていたが、読んで元気の出る本である。やはり志は大きく持たなければ………。

幾つかのエピソード
1.23歳にして愛知県病院長兼愛知医学校長に赴任し、1882年岐阜で刺された板垣退助の治療をし、会話をしたことで気に入られたという名古屋エピソードも盛られている。

2.伊東巳代治を首相にしようと後藤新平は川上貞奴を使って西園寺公望や山県有朋を口説いていったと書かれている。

(2007.9.17/井沢知旦)