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白壁アカデミア研究講座「手の知」

 白壁アカデミアのことを耳にしたのはもうずいぶん前の事であり、何らかの形では関わりたいと思っていた。いくつかの講座の中で「手の知」を受けてみたいと思い、迷うことなく申し込んだ。

 コーディネーターはアルパックの尾関さん、まちづくりコーディネーターの水野一男さんで、講師として堂宮大工の杉村幸次郎さん、金型鋳造の早瀬実さん、金虎酒造の水野康次さん、日本建築家の月義伸さんが参加されていた。他にも現代美術家、左官の人などが講師として予定されており、彼らを通して、名古屋近辺のものづくりを実体験を通して学ぶというのが本講座の趣旨である。

 大学院を意識して、各講義は1時間半と定められているが、講師陣の熱い思い入れに加え、受講者も弁の立つ人が多く、初回は主旨説明と自己紹介だけで、2時間があっという間に過ぎた。2回目以降、議論や見学が始まると、延長授業が常となっている。

 講座の内容は以下のとおりである。(詳細は後述)

講  座  内  容

開 催 日

場  所

第1回

技の現代的意義−「技は生活創造のヒューマンウェア」

講座内容説明・自己紹介

10月28日(水)

加藤邸

第2回

名古屋の技と系譜−「現代に生きる匠の文化都市・名古屋の技術系譜」

提起と討論

11月11日(水)

加藤邸

第3回

暮らしの現場から−「暮らしを支える技をまちから発見する」

グループワーク

11月25日(水)

橦木館

第4回

白壁の現場から−「近代化を支えた伝統のテクノロジー」

提起と討論

12月9日(水)

加藤邸

第5回

宮大工の現場から−「ハイテクを実現する伝統のローテク」

講義と実習

12月22日(火)

甚目寺・浅草屋工務店

第6回

町工場の現場から−「先端を支える下町工場のイメージウェア」

講義と実習

1月13日(水)

名古屋市・(株)ナガラ

第7回

醸造蔵の現場から−「自然を活かす伝統のバイオテクノロジー」

講義と実習

1月20日(水)

名古屋市・金虎酒造

第8回

技の未来創造展望−「技の復権は人間性を巧みの文化都市・名古屋のルネッサンス」

発表と討論

2月3日(水)

加藤邸

これまでに5回開催されているが、全て延長授業となっている。これだけの内容を1講座(1時間半)というのは無理があるのかもしれない。また、最初の自己紹介のアンケートで、最終学歴の専攻テーマを問うなど、受講者の中にはとまどいを感じる部分もある。(既に脱落者も何名か出ている。)どういった線引きをしていくのか、今後の課題であると感じた。

(竹内)


第1回 「技の現代的意義(講座内容説明・自己紹介)」

日時:平成10年10月28日(水) 午後7時〜8時30分 会場:主税町 加藤邸

 第1回目は、代表世話人の中京女子大学学長 谷岡郁子さんも差し入れを持って、見学に訪れた。「手の知」に関しては発案者であり、実は受講者になりたかったと、これまで大事に育ててこられた熱意を語られていた。白壁アカデミアは動き出したばかりであり、広く注目を集めているようであり、「まずは8回、講座を開いて、来年からはシリーズ化していきたい。そしてゆくゆくは大学院へと発展できたら…」との尾関さんのコメントが印象的だった。

●会場「加藤邸」

 加藤邸は、保存活用として一躍有名となった橦木館の背中合わせの筋にある、これまた古いお屋敷である。昭和初期に建てられた日本建築住宅に洋風応接間を併せ持つ和洋折衷様式の近代建築である。和風の門塀をくぐると、月明かりにうっすらと照らされた茂みの間に石敷きの小径が伸びており、私たちを玄関へと導いてくれる。広い玄関に靴をそろえ、中に入って右手の濡れ縁に面した続き間で、「手の知」が行われている。

●参加者

 「講師と受講者の垣根を越えて」という、当講座の趣旨に沿い、手渡された名簿には、講師も受講者もコーディネーターも、すべて一緒くたにした名前がアイウエオ順に並べられていた。参加者は全部で 36名。白壁アカデミアの講座の中では、最も盛況であるらしい。

 受講者はというと、若い人から中高年まで老若男女のバラエティ豊かで、「昨年のトリエンナーレの白壁地区の町歩きでこの町に興味をもった」という人、「日本酒の利き酒があるというのできました」という人、「舞台芸術の仕事の中で、大工の技にふれ感激した」という女性、「先日のトリエンナーレで大工さんにもらった『削り花』(削りくず)を部屋に飾っている」というインテリアを仕事とする女性、近くに住んでいるという主婦、など色々。新聞記事を見て参加したという人がかなりいた。

(竹内、伊藤)


第2回 「名古屋と技の系譜」

日時:平成10年11月11日(水) 午後7時〜8時30分   会場:主税町 加藤邸

 名古屋市総務局企画調整室長の加藤正嗣氏による、講義。加藤さんはアルパックの尾関さん等とともに、名古屋城本丸御殿の再建を目指して、研究活動を続けてこられ、1993(H5)年9月10日〜10月15日、中部経済新聞に掲載された新聞記事を資料に、名古屋(東海地区)の「文化」と「技術」についての話をされた。

 西国の前衛として、尾張を重視した家康の「清洲越し」をきっかけに、名古屋に素材、職人、テクノクラートが総動員され、名古屋城本丸御殿建築後、城下にそれらの技術が定着し、後に仏壇仏具の生産、和時計の生産、能楽の発展等、名古屋の伝統といわれる、文化・技術を構築していった。また、それらの木工職人、飾屋職人、時計職人が、産業技術にその技を活用し、自動車・航空機産業、織物、陶磁器などの地場産業を発展させていった。

 筋立てて説明されると、なるほどと感心するばかりで、ここ名古屋には「文化と技術のドラマ」があると驚いた。

・同じような、文化・技術の発展のドラマが、他の城下町にもあったのだろうか。

・なぜ、白壁地区に工業が集中したのか。  などなど・・

第3回の「手の知」までに、グループに分かれ、フィールドワークを行うことになり、グループ分けが難しいため、いくつかのコース案から、希望を取り、その結果で編成された。

(竹内) 


第3回 「グループワーク」

日時:平成10年11月25日(水) 午後7時〜8時30分   会場:橦木館

 第2回で編成した4つのグループが、第3回までにそれぞれ時間をとって集まりフィールドワークを行ってきた。第3回では、前半、各グループが結果を模造紙にまとめ、後半、発表が行われた。

1.本町通・大須 橘町町家・仏壇屋街チーム

●橘町が仏壇仏具商街になった理由

  • 橘町に仏具産業が集積したのは以外に新しく、戦後から。戦災を免れたためが店が移ってきた。

  • 小型仏壇の発売、展示即売会など売り方の工夫を行ったのが効を奏した。

  • 寺院の近くだったので顧客(?)情報を掴みやすかった?

●名古屋仏壇について

  • 台座が高いのが特徴。これは水害対策と言われるが、川が近かった清洲から名古屋に持ち込まれたことか?

●橘町の街並み

  • 三叉路が多い。名古屋城の南に位置するこのこの地は、いざという時砦となる寺院が集積しており、三叉路も軍事的な配慮からのものではないだろうか。

●橘仏壇のいま

  • 安価な輸入品におされて職人の仕事が減少、職人が各地に散らばり、後継者難の状態。

1. 円頓寺・四間道 菊井町の道具〜明道町の駄菓子屋チーム

  • 屋根神様や塗込め壁が町のあちこちに残っている。

  • 駄菓子屋とは、金太郎飴など。しかし、いくら伝統技術といっても売れ行きは芳しくなく、企業のロゴ入りのものなどを製作したりして生き残りをはかっている。

2.堀川沿い木材産業チーム

  • 昔は「木挽き」という木材加工職人がいて、木の特質に合わせて鋸を入れることができた。今は機械化のせいでとても少なくなっている。

  • 欄間職人さんもこのあたりに店を構えているが、今残っているのは一軒。輸入物におされているのと、最近のシンプル志向が欄間を必要としていない。

  • 以前は、木材問屋、加工業者、道具業者、欄間職人その他、様々な職業の人々が有機的につながって、木材を無駄なく利用するシステムができあがっていた。

  • 堀川は、今は輸送ルートとしては使われておらず、輸送は主にトラックで行われる。運んできた木材をしばらく堀川につけておく。

  • 扱う木材は輸入ものが圧倒的に多くなっている。例えばNZ産の松は年輪幅1.5センチに対し、木曽檜は2ミリ。成長スピードが全く異なり、輸入ものの方が断然価格が安い。

  • 名古屋の木材の主要な拠点は、堀川沿いから他に移ってしまった。

3.美濃街道グループ

  • 東海道と中山道を結ぶ道沿いの、八坂神社界隈。神社、仏閣が多い。屋根には屋根神様の姿も。

  • 以前は道沿いに職人さんの店が連なっていたが、今は歯抜け状態。

  • ここは、「削ろう会」の仕掛け人の堂宮大工、杉村幸次郎さんが住まわれている地域。

  • 老舗の桐タンス製造所がある。桐の良材はもう日本にはなく、中国等から輸入する。桐のんすは火災に強く、家が全焼してもたんすの中身だけは焼けずに残るという。しかし、今は和服の着用が少ないので、嫁入り道具に桐たんすを持っていく人も少なくなった。新しい技術への挑戦として、漆塗の桐タンスなどもつくっている。

  • 八坂神社界隈は銭湯が多い。燃料は木材の最後の使い道である。

まとめ

  • 手の技術が全盛だった頃は、色々な「手の職人」達が有機的に結ばれて、ものづくりに携わっており、まちの形をつくっていた。

  • 今はそういった「手の技術」は、機械化、効率化の波ののみこまれ、どんどん解体、淘汰されてきている。木材利用しかり、駄菓子生産しかり…。

  • しかし、それら「手の技術」というものは、非常に人をひきつけるものを持っており、魅力的。このまま失ってしまうのは非常にもったいない。→これからどうすればよいのか?

(伊藤)  


第4回 白壁の現場から「近代化を支えた伝統のテクノロジー」

日時:平成10年12月9日(水) 午後7時〜8時30分   会場:加藤邸

 第4回は、会場となっている加藤邸を建築家、大工、左官の三者とともに、隅々まで見せていただこうという主旨である。

1.白壁町と加藤邸について

講師:望月義信 日本建築設計者 伊藤平左衛門建築事務所

 「住宅」の誕生から加藤邸の建てられた大正時代までのその歴史をざっと紹介。藤原時代の建築技術が今の加藤邸のどこに、見られるかなど、わかりやすく解説された。望月氏は日本建築についてかなり研究をされているようで、話をしながら貴重な資料を多数、回覧してくれた。

  • 春田邸(加藤邸のはすむかい)完成時の設計図:全て手書きで、数字も漢数字という、一体何が何を示すのか理解できない代物。
  • 大正初期頃のデザインブック:門、床の間などの部分毎の見本帳。
  • 「和洋建築新雛形」:大正時代の大工用のテキスト。その頃トレンドとされていた洋風のカーブした階段や、望遠台(ベランダのこと!)の作り方が紹介されている。

2.大工・左官から見た建築の特徴

講師:杉村幸次郎 宮大工  岡田明廣 日本建築設計者

 まず、岡田氏より、日本建築を拝見するときの心構えについて伺った後、ぞろぞろと、加藤邸を練り歩いた。

【日本建築拝見の心構え】

  • 家に上がるとき、靴下は持参したモノに履き替える

  • Gパンは畳がすれるため、相応しくない。

  • 荷物やコートはふすま、壁等からはなしておく。

  • 紙と杉の部分はさわってはいけない。

 3人のプロフェッショナルは実に生き生きと家の細部を説明してまわり、受講者がその後を感嘆の声を挙げながらついて回ったが、加藤邸の加藤さんは、自分の家ながら、知らないことがあるものだと、感心されていた。

 加藤邸は正目の板の間にアクセントとして竹を挟み込んだり、欄間とふすまの取っ手を「月」のモチーフに統一したり、実に遊び心に富んでいる。見学の後、宮大工の杉村さんが、「見て楽しい造作がしてあると言うことは当時の大工がいかに楽しんで造ったかということです。我々大工はそれしか楽しみがないから。施主さんが良い仕事をさせてくれるのが一番です。」とコメントされた。また、左官の岡田さんが「最近はやたらと相見つもりをとり、値段交渉をする。いくら風水や家相を気にしても、そういう家には大工の怨念がこもっているから、栄えることはない。」と断言されたのが印象的だった。

(竹内) 


第5回 宮大工の現場から 〜ハイテクを実現する伝統のローテク〜

木と道具と大工の伝統技術に学ぶ 解説と実習

日時:平成10年12月22日(火) 会場:甚目寺・浅草屋工務店

 甚目寺駅から車で 10分程走ると、巨大倉庫のような外観の「浅草屋工務店」に着く。そこで、堂宮大工を営む杉村幸次郎さんが第5回の講師だ。受講者は、場所が遠いためか通常よりやや少な目、10人強であった。初めに中二階の製図室で鉄や砥石の説明を受けた後、1階の作業場に降り、刃物の説明や鉋かけ、研ぎの実演を見せてもらった。

●Macintosh

 驚くべきことに、杉村さんは、製図には Macintoshを用いている。堂宮大工とパソコンの取り合わせには驚いたが、「老眼になると、大きく拡大できるパソコン製図が楽」という。

●木と鉄と石

 建築をつくる時に絶対必要なのが、木と鉄と石。「日本の文化は木と石と鉄でできている」そうだ。木を究めようとすれば鉄を知ることが必要で、また、石を知ることが必要なのだそうだ。昔の日本の社寺建築などは木材だけで造られているかのように語られることがあるが、実は鉄の釘も使われている。ただし、引き抜くことのできる釘を使うために、解体→再生が可能なのである。

●砥石

 砥石にも地域により色々種類がある。初めに発見されたのは、京都であり、渋い黄色い色が特徴。それまで仏像はすべて、柔らかい広葉樹であったのが、砥石の発見により刃物の切れがよくなったので、針葉樹の檜が用いられるようになったという。愛知では、三河で「三河白(みかわじろ)」という白い砥石がとれる。日本全国で、それぞれの土地の大工が使う刃物に合わせて、砥石も違うものを使っていたようだ。砥石の流通も、昔から盛んだったようである。「からす」と言って、黒い模様の入った砥石は珍しく、高価である。

●鋼

 玉鋼(たまはがね)、炭素鋼(玉鋼に炭素を加えたもの)、スウェーデン鋼(炭素鋼に、さらにモリブデンなどの物質を加えてある)の3種類の素材の刃物を見せていただいた。玉鋼から順に、段々と鉄の純度が低くなっている。切れ味は純度の高さに正比例しているという。実際に3本を使ってみたら、成る程、そんな気がした。

●道具

 「今の人は道具離れを起こすのは、道具自体がよくないから」という。戦前、日本の一般的な大工が個人で所有していた道具は、およそ 180。宮大工は280くらいであるという。この数は、世界の建築職人と比べても、非常に多いのだという。

(伊藤)


第6回 町工場の現場から「先端を支える下町工場のイメージウェア」

【講義と実習】

日時:平成11年1月13日(水) 会場:名古屋市中川区・(株)ナガラ

 「手の知」年明け第一段である。当初は6日が予定されていたが、見学先の潟iガラの仕事始めと重なったため、一週間遅れとなった。金山駅より市バスで20分、夕闇の商店街を通り抜けて、静かな住宅と工場が並んでたつ、小本町に、国際的に活躍する金型メーカー、潟iガラがある。

 まるで就職説明会のように、2人ずつ長机に座り、早瀬社長の説明を受け、学生向け会社案内のビデオを見せていただいた。

 早瀬氏は5才の子どもの時から「ものづくり」が好きで、高校を卒業してから金型作りを仕事とし、40才にして、独立。19年で日本の自動車メーカー全社と取り引きするようになった。

 金型は、大量生産を目的とし、家電製品でも自動車でもモデルチェンジに迅速に対応する必要がある。ドイツでは金型産業が成り立たなかったが、これは、ドイツ人の一つのものを、壊れるまで使うという性格から来ているという。(フォルクスワーゲンがモデルチェンジしないのは、最初の金型がなかなか壊れないから?)家庭用家電製品の金型ならば最短で3日間で作ることがある。過去の例で言えば、パン焼き機がある。一社が発表した途端、家電メーカー4〜5社から注文が相次ぎ、忙しい思いをした。

工場内見学

 設計室から、製造工場、試作場まで、社員の方の説明のもと、グループに分かれ、見学した。20時を過ぎていたが、残業する人が多く、工場の機械も忙しく動いていた。ナガラは若者の育成に積極的で、20代が64%を占めている。若い人は大型のコンピューターによる、細かな作業を得意とし、職人と言うよりは技術者のイメージを受けた。現在、40%はまだ手作業を必要としているが、将来的には96%は、全て機械で対応できると早瀬氏は考えている。残りの4%が、どうしても機械ではできない「匠」の部分であり、ここを担う若い人を育てなければならないとのこと。

世界のマザーマシンのふるさと

 説明も興味深かったが、最後にこれだけは言いたいとの、早瀬氏の主張が印象的であった。

  ”世界遺産など、長い年月をかけたものが世界では文化とされている。これは、遠くから見て迫力があり素晴らしいものが多い。これに対し、日本の文化というのは、近づいて、見て、さわって素晴らしいものが多い。金型技術はこれに通じている。中川区から港区までの一体は世界に名だたるマザーマシンの産業地区であり、足で回ることのできる範囲に、材料屋、鋳物屋、工具屋なども揃っている。力を合わせれば一日で製品を創り上げることが可能である。しかし、それぞれの工場が戸を閉めてPRをしてこなかったため、この偉大な地域の特性は知られていない、「世界のマザーマシンのふるさと」をもっと打ち出すべきである。”

  「手の知」の講座は5回目までで伝統・歴史的なまちの背景についてのレクチャーを踏まえて、6回目の今回、とかく東にばかり目を向けがちな名古屋に、実は西に「手の知」が現在のものとして息づいている、という発見があった。

(1999.1.25/竹内)


第7回 北区・金虎酒造見学 ―酒と杜氏の伝統技術に学ぶ―

【講義と見学 新酒利き酒会】

日時:平成11年1月20日(水) 会場:名古屋市北区金虎酒造

 甚目寺・浅草屋工務店、(株)ナガラに続き、「現場見学シリーズ」第3弾。口にする機会はあっても、作り方となるとあまり知られていない(私だけか?)日本酒の製造技術を学ぶとともに、しぼり立ての新酒、手作りのおでんなどをほおばり、自然と会話も弾む晩のひとときであった。今回は受講生以外も参加できるとあって、 30人くらいの人が来ていて大盛況だった。(参加できなかった竹内さんにはほんとに申し訳ない…)。

金虎酒造

 社長は水野康次さんで、「手の知」に講師として参加されている。(おそらく2代目社長の)水野さんは見たところ50代くらいで、80代くらいの会長はお父上だろう。会長が若い頃に、この地で酒造業を始められたのだろうと思われる。今は、冬季だけ新潟から来る杜氏さんを含め、4人で酒造りを行っているということ。何十年か前は、愛知県にももっと酒蔵がたくさんあったが、今は非常に少なくなったということである。

米と水

 おいしい酒をつくるには、米と水が重要だ。最も日本酒に適している米は、兵庫の「山田錦」で、湿気が多く、粘土質の土地で獲れる米がよいのだそうだ。山田錦は、粒が大きいために、稲穂がすぐに倒れてしまい、育成に手間がかかるという。古米は、酒造りには最悪という。

精米

 日本酒で、吟醸、大吟醸などというが、精米のレベルによって、そのように呼ばれている。吟醸酒といわれるものは、米を50%、70%などまでに精米してしまい、ほとんど米の芯の部分しか使わない。精米した残りの部分が糠である。

蒸米

 精米した白米は、高温に保たれた部屋で蒸される。見学の日は32℃に保たれていたが、いつも一定にしておけばいいというわけではなく、状況によって変えるという。精米の度合いの高い程、温度管理が大変で、夜中に何度も起きなくてはならないこともあるという。米は毛布や麻の布の下でじわじわと蒸されており、杜氏さんは、それらを本当に大切に大切に「育てて」いるようだった。

もろみ

 蒸米に、こうじ・酵母を加えたものが「もろみ」で、タンクの中で糖化・発酵させる。だいたい18日くらいで酒になるが、40日くらいかかるものもある。その後、もろみを絞り、清酒と酒粕にする。これには、アコーディオン(?)のような機械を使い、絞り終わると、ぺらぺらの袋状のものの中に、ぺらぺらの酒粕が残るという仕組み。にごり酒の場合は絞らずに、麻の布に透す程度。

女人禁制の掟

 昔は、酒蔵に女性が入るのは禁物であった。相撲の土俵などでも同じ様なことがあり、「神聖な場所が穢れるから」などと言われるが、実のところ、そこで活動する男性陣の気持ちが女性に向いてしまい、肝心のことに集中できないから、ということだったらしい。なるほど。

感想

 嗜好品のように捉えていた日本酒だが、その製造工程を知ると、昔からの日本人の生活に密着しているものだ、ということがわかる。特に、私は驚くべきことに、酒粕が「もろみ」の絞りかすなのだということを、今回初めて知った。家庭で作られる粕汁も、酒粕を使う。関西で粕汁がよくつくられるのは、日本酒のメッカ・灘が近いということと関係あるのかもしれない。

 この日は参加者全員に、お土産として清酒「初絞り」と、酒粕が配られた。酒粕は家で、父親の手によって甘酒となり、私達のお腹を温めてくれた。初絞りの方は、まだ会社の冷蔵庫に中で、出番を待っているところだ。今度、田中さんの家に持ってゆくので、名古屋の地酒を皆さまに味わって頂けることと思う。

(伊藤) 


第8回 研究講座「手の知」小論文の発表

日時:平成11年2月3日(水) 会場:加藤邸

手の知の持つ力

 講座の会場となった加藤邸は白壁アカデミアの象徴であり、同時に私の中で「手の知」の象徴だった。「手の知」とは、職人といわれる人々の技や、「昔は良かった…」という、古き良き時代に思いを馳せる、そんな温かいけれど切ない過去のものだと思っていた。しかし、7回の講座を修了して、私の中で「手の知」という言葉はその意味をがらっと変えた。

 第2回の座学で名古屋における技の系譜を学び、第4回では、加藤邸のすばらしさを再認識した。そしてフィールドワークでは、グループでまちへと出掛けた。私が訪れたのは橘町である。仏壇、仏具の店の建ち並ぶ古い商店街で、地図を見て、仏具関係の店舗と寺が多いことに驚き、訪れるまでは、なぜ仏具関係の店が集積したのか、その鍵は東別院をはじめとする寺の存在にあるのではないかと話し合っていた。住民の方にヒアリングを行い、町の生い立ちを聞き、古い町屋をカメラに収めるというのが私の思惑であった。

 ところが、飛び込んだ仏壇店で聞いた話は、まちの昔の話ではなく、現在の話だった。輸入物の仏壇に押されがちであること、職人がだんだん減り、仏壇や仏具の制作が難しくなっていること。そしてなによりも印象的であったのが、一つのまちのなかでも、商売の方法が様々であり、残念ながら、詐欺まがいの商売も行われているということだった。「手の知」のない製品を、「手の知」があると見せかけて高く売りつけることが増えている。‘どの店がそうした商売をしているかは分かっているが、うちがしゃべったことは必ず秘密にしてほしい。この界隈は組合がしっかりしていて、昔から結束が堅い。こんなことを話したと分かると、このまちで商売しにくくなる。’というのが店主の言い分だった。

 昔は「手の知」を持つ人々が、その技能をより良く生かすために、まちを形成していた。 

 効率よく製品を作り上げ、その力が、まちをいきいきと発展させていたに違いない。しかし今や、手の知がなくなり、結束だけが残り、まちを駄目にしようとしている。伝統技術という「手の知」がなくなったために、閉鎖的なまちだけが残ってしまったのではないかと私は考えた。古いものがなくなるとまちや人のつながりがなくなるのであれば、新しいものを追い求める傾向のある日本の行く末は暗いなあというのが、フィールドワークを終えての感想だった。

 しかし、第6回で訪れた、金型工場のナガラで、夜遅くまで稼働する大型の機械やそれを動かすコンピューターもまた、「手の知」であると告げられた時、私は本当に驚いた。これまでの概念が覆された。

 「手の知」とは手動であるとか、指定文化財であるとか、特別なものではなかった。では、「手の知」とはなにか。それは、第4回の時の、大工の杉村氏のつぶやきが答えであると私は考える。「加藤邸は、当時の大工が楽しんで、誇りを持って作ったものだ。作り手が楽しんで作ったものは見ても楽しい。」作り手が誇りを持って楽しんで作る、それが手の知ではないか。そう考えれば、私たちの周りには、手の知があふれている。

 橘町に流れ込んでいる、輸入物の仏壇も、視点を変えれば、手の知である。困ったことだと言いながらも、お店の方は、輸入製品と国産品の前に我々を立たせ、その見分け方をレクチャーしてくれた。どんな製法を経て、どんな特徴が双方に現れるかを、実にいきいきと説明してくれたのが、印象的である。

 ナガラの早瀬氏が、「世界に誇るマザーマシーンのまちとして反省すべき点があるとすれば、各工場がシャッターを閉めて、PRをしないでいることだろう。」と言われていた。どのまちにも手の知は存在し、その力を生かすか、殺すかは人の考え方次第である。

 その手法を、見いだせれば、新しいものが溢れるであろう、将来のまちも、きっと、手の知に満ちた楽しいものになる!。

(1999.2.3/竹内)


第8回 研究講座「手の知」小論文の発表

日時:平成11年2月3日(水) 会場:加藤邸

まず、知ることからはじめよう!

 「手の知」という研究講座の中で、講師や参加者の方々から様々な貴重なお話を聴かせて頂くことができたが、私の心に最も印象深く響いた言葉は、フィールドワークでご一緒させて頂いた日本建築家、望月義伸氏が、堀川沿いを散策しながらおっしゃっていたことである。その時、私達は、川から地上に材木を引き揚げるために設置されている、簡単な仕組みの、クレーンの様なものを眺めていた。あれは確か、モーターの力でロープを巻くようにできていたのではなかっただろうか。それを見て望月氏は、「これは、『道具』だと言って良いな。使う人に仕組みが分かるようにできているものが道具で、分からないものが機械、と分類するとすれば。」と言われたのである。私は、「なるほどなあ…。」と感心してしまった。昔の人の生活は、衣・食・住すべてにおいて「道具(=仕組みのわかるもの)」に囲まれていたが、現代人の暮らしは、何をするにも機械・機械・機械(=仕組みがわからないもの)…。この小論文を書いているパソコンだって、一体全体どういう仕組みで動いているのか、どこから来た材料でどんな風に作られたのか、私にはさっぱりわかっていない。

 講座名となっている「手の知」を、私は、この「道具(=仕組みのわかるもの)」と同じような意味でとらえている。着ること、食べること、住むこと、移動すること、知人と連絡をとりあうことなど、暮らしのすべてが、昔々は一人の人間にも理解できる程、シンプルな仕組みになっていた。しかし、現代の日本では、すべてが、便利さ、早さ、快適さなどの向上とともにどんどん複雑化してしまい、(山にこもって暮らす仙人のような人とかを除いては)個々の人間が自分の暮らしの全体像を理解するのは不可能な状況となった。そのために、ゴミ問題など色々な歪みもあちこちに生じている。しかし、私達の暮らしを昔の貧しい時代に戻すのは、もう絶対に無理だ。とすれば、どうするか。それぞれの人が、生活に密着することの範囲内、つまり、食べ物・家づくり・廃棄物などに関して、できる限り知り、考えることが必要になってきているのである。「藤前干潟問題」では、世論の盛り上がりが行政の方針を変えたが、このことは、市民がゴミ問題や廃棄物処理場のことを知り、考えることがなくしてはあり得ないことだった。これからの市民のあり方を象徴的に示していると感じられる。私もこれから、自分の周辺のことを知り、「道具化(=仕組みを知る)してゆきたいと思っているところだ。

 連続7回の講座の中で、断片的ではあるものの色々な「手の知」に触れることができた。私はそれらを、自分と関係ない「技」としてではなく、できるだけ自分自身の問題としてとらえようと試みた(特に私は常識的な知識に欠けているところがある為、どこに言っても「目から鱗」だった)。自分が暮らす名古屋という地には脈々と受け継がれてきた技術があるのだなあ、いつも運転している車のバンパーは、こんな風につくられているのか、時々呑む日本酒というのは、こんな行程を経てつくられるのか、甘酒の原料になる酒粕は、酒を絞った後のカスだったのか(!)、砥石を購入して、一度包丁でも研いでみるか…。

 自分の生活を形づくっているものの一端にふれることができたと同時に、名古屋近辺には、他の地域にも堂々と誇れるような技術が、たくさんあるのだということもわかった。特に、(株)ナガラの社長さんが言われていたように、世界に誇るトヨタ自動車のお膝本であるこの地域には、有名な東京・大田区に負けないくらいの産業技術の集積があることは、もっと広く、色々な人に知ってもらえるとよいなあと思う。

 また、(尾関さんが度々強調しておられた)、技術のネットワークも非常に興味深い話だ。グループワークで、堀川沿いの木材関連業者を訪ね歩いた時、昔は、山で木を育てる人、木を切り出し、運搬し、製材する人、製材のための鋸の目を立てる人、製材された木で欄間を彫る人、欄間を彫るための工具をつくる人などが、それぞれが自分の役割を持ちながら、依存しあって生きていたのだということを知ることができた。今は、ネットワークの範囲が、海を越えて広がっており、かつて栄えたネットワークや技術は、まるごと消失してしまいそうな衰退ぶりである。先程書いたように、昔の生活や、それを前提に成り立っていた産業を復元することはできないが、自分とは関係ないかのように起こっている変化というものを、放置するのではなく、一般市民が能動的に変化を認識し、点検する作業が必要なのだと思う。その中で、技術の再評価が行われたり、後継者が誕生したりすることもあるかもしれない。知らなければ何もできないが、知ることで新しい動きが生まれることもあると思うのだ。

 また、ネットワークと言えば、今回の講座受講で、様々な人と知り合うことができたのは私にとって大きな収穫である。先程の望月氏や、宮大工の杉村氏をはじめとする講師陣の方々をはじめ、「手の知」に興味を持つ多くの人達と知り合い(?)になれたことは、何か新しい動きの前兆なのではないかと思ったりする。色々な立場の人・技術を持つ人が、ひとつの輪をつくることができたのだから、これから、何か活動を立ち上げない手はない、と思える。何か事を起こしてゆくためには、そのための勉強が必要なのは当然であり、「手の知」はまさにそれだったのではないか。今回、受講生は、文字通り、どうしても受け身にならざるを得ないようなところがあったが、主体性を発揮するのは、これからだ、と思える。ただし、それぞれが忙しい身のため、なかなか難しいのかもしれないが…。

 取り留めがない話になってしまったが、とにかく、大切なのは「知ること!」。これからも、色々なことを知り、色々な活動に結びつけてゆくことができたらいいなあ、と思う。それが、今回知り合ったメンバーと一緒に、だったら、もっといいなあと思うのである。

(1999.2.3/伊藤彩子)