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波蘭訪問記

1.日本で知られていないポーランド
 タイトルが文字化けしているのではありません。波蘭はポーランドのことで、ワードの変換もOKです。しかしポーランドについて日本人はどれだけ情報を持っているのでしょう?私自身、名古屋学院大学でのスタディツアーの学生引率補助(H25.2.16〜2.28)を担わなければ、ほとんど意識していない国でした。持ち得ている情報は人様々ですが、おそらく、都市名を挙げよと言われても首都ワルシャワぐらいしか思い浮かばす、あるいは著名人を挙げよと言われても、「連帯」のワレサ議長ぐらいでしょうか。例えば、コペルニクスやショパン、キュリー夫人やワイダ映画監督、前々ローマ法王ヨハネパウロU世などがスラスラと出てくるとすれば、それぞれの分野に精通している人か、ポーランドに関わる仕事をしている人ではないでしょうか?人口3,800万人、面積31.3万km2と日本の3割、8割に相当します。

2.ポーランドの栄枯盛衰−18世紀以降は負の遺産?−
 ポーランドは中央ヨーロッパに位置し、西にドイツ、西にウクライナ、ウクライナ、ベルラーシ等(旧ソ連)、南はチェコ、スロバキア、北はバルト海に囲まれています。ヨーロッパ大陸は地続きなので、侵略・被侵略の歴史であり、ポーランドは激変の国の一つでしょう。966年にポーランド公国として認知され、1569年にはポーランド=リトアニア共和国(第1共和国)となって、欧州最強最大の国家となりました。その間、ドイツ騎士団との激しい戦争(タンネンベルクの戦い1410)が行われ、クラクフ市の中央広場にはその騎士団長の討ち首である巨大ブロンズ像が置かれています(それほど憎しということ、スターリンに似せているとも言われています)。
 しかしその後、様々な経緯をたどって、3度も国家消滅にあっています。第一が18世紀後半のプロイセン、ロシア帝国、ハプスブルク帝国(オーストリア)による分割、第二が1815年のワルシャワ王国の解体、第三が1939年のナチスドイツとソ連による分割がそれです。国家がなくなると、支配者に対する蜂起がたびたび勃発し、しかし弾圧され、拷問や虐殺、流刑が歴史に積み重なっていきます。その最たるものがアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所で、当初はポーランドの政治犯の収容所として建設され、ユダヤ人、ロマ、ソ連軍捕虜等の収容所に拡大されて、150万人の虐殺が行われました。「負の世界遺産」に指定(1979)されています。ワルシャワの市街地は終戦直前にワルシャワ蜂起を鎮圧するため、ナチスドイツ軍によって40万人のうち半数の20万人が殺され、市街地も徹底的に破壊されました。それをもとのように復興したことでワルシャワの都市は有名です。国内には宮殿・王宮や劇場等の豪華な建造物もありますが、他方、刑務所や監獄、虐殺現場や蜂起記念館などが博物館として保存され、それを通じて負の遺産を未来に引き継いでいます。
 ワルシャワの中心地には37階建ての高層ビル文化科学宮殿があります。スターリンによって建てられたその建物は、権威主義のランドマークになっているので「ソビエトの墓石」と言われています。「ポーランド人が最も好きな場所はこの建物の展望台。なぜならそこからだけは、文化科学宮殿が見えないから」というブラックジョークがあります。それほどアンチ「ソ連」なのです。

3.新しいポーランド−ものづくりの現場−
 第二次世界大戦後は、社会主義国として出発しました。それゆえ、情報が閉ざされた感があります。1989年12月に東西の壁が崩壊し、資本主義に移行しています。社会主義の負の遺産を払拭する大改革が行われ、年間1000%のハイパーインフレーションも経験しました。今は物価が安定しつつ、EUにも加盟し、経済成長を遂げる国となっています。日系企業の進出は中東欧で最も多い国で、254社(2010)にも上ります。いわば欧州の生産基地になっているのですが、ドイツに近いエリアで製造業の立地が目立ちます。ドイツと結ぶ高速道路が整備されつつあり、電力や水供給が安定し、労働力も安く(ドイツを1とすると、チェコ1/2、ポーランド1/3言われています)、豊富で、治安がいいことが、立地の決め手となっているようです。
 都市内の公共交通機関は市電(LRT)とバスで、都市間移動は鉄道です。LRTはドイツ製の最新式が導入されています。

4.ポーランドと親日
 日本はポーランドでは尊敬されていると言われています。その理由の第一は、リトアニア日本領事館の領事代理の杉原千畝氏がユダヤ系ポーランド人を命のビザを発給して6000人以上を救ったこと(1940)、日露戦争でロシア軍として戦ったポーランド人捕虜4600人を日本において厚遇したこと(1902-1904)、第三はロシア革命の混乱によって、シベリアに流刑されていたポーランド人の孤児756人を1920年と1922年の2度にわたり、日本政府と日本赤十字社は日本に受け入れ、その後にポーランドに返送したこと、などが挙げられます。非人道の戦争に対比される人道的行為が行われたがゆえに尊敬されました。

おわりに
 このように見てくると、戦争は如何に非人道的で狂気に走るのか、それに抵抗し人道を貫くことは犠牲を伴うが、尊敬もされる、恨みつらみは100年や200年では消えない………。歴史を学ぶことは未来を切り拓くことに繋がっているようです。しかし人間は忘れやすく、同じことを繰り返すようであり、それを常に記憶に呼び起こす装置(それが博物館や碑)が必要のようです。
 ここまで書いて、ポーランドを暗く重いイメージにしているのではと心配しています。実は旧王宮や夏の王宮、オペラ座やショパン博物館など、「正の遺産」も多く、それらは観光の目玉になっています。総じて若い女性は美しい。ある程度歳を重ねると「爆発」する女性も目立ちますが………。ポーランド料理も日本人に合います。治安も非常にいい。そして親日の国なので、扱いが丁寧な気がします。また、子どもたちの表情は明るい。是非欧州コースの一つに入れてください。病みつきになりそうです。

*ポーランド訪問にあたり、家本博一名古屋学院大学教授に同行しました。その際に歴史から経済、宗教・文化まで、事細かに解説していただき、大変勉強になりました。その博識ぶりというか、情報量というか、脱帽です。解説の有無は訪問の質を左右する重要な要素です。大変ありがとうございました(ジンクイエ・ボルド)。

※写真をクリックすると別ウィンドウが開いて拡大写真を見ることができます。
クラクフ市の中央広場
クラクフ市(11世紀から1596年までの首都)の中央広場
中央広場の銅像
中央広場にあるドイツ騎士団の団長の討ち首。これがモニュメントになるほど憎しみが大きい。
冬のオープンカフェ
冬のオープンカフェ。しっかり着こんで酒を飲む?
スナ・グラ教会
チェンストホーヴァー市にあるヤスナ・グラ教会。ポーランドのカソリック教会の中心で、黒いマリア像で有名。
アウシュヴィッツ収容所の門
アウシュヴィッツ収容所の門。いまは博物館になっている。
残された靴など
残された夥しい数の靴が展示されている。髪、眼鏡、カバンなども展示
ビルケナウ収容所
ビルケナウ収容所。アウシュヴィッツの近傍にある第二の収容所で、こちらのほうが規模は大きい。
1944年8月ワルシャワ40万人市民が蜂起
1944年8月にナチスドイツ軍に抗戦するためにワルシャワ40万人市民が蜂起、しかし2ヶ月で鎮圧され、20万人が殺された。
ワルシャワの市街地
ナチスドイツ軍に徹底して破壊されたワルシャワの市街地。
旧市街地広場周辺
復元された旧市街地広場周辺の建物
国立オペラ座
復元された国立オペラ座
次代を担う子ども達
次代を担う子ども達の表情は明るい(ワルシャワにて)
(2013.3.18/井澤知旦)