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世界遺産 ベギンホフ
 ベギンホフとは、中世ヨーロッパの時代に、男達が十字軍など戦争のために遠征し街を離れている間、残された女性達が集まって生活を分かち合った、ベルギー・フランダース地方特有の自治体である。敷地はレンガの塀で囲まれており、戦争の被害から逃れる聖域となっていた。この女性の集まり、ベギン会は「修道院」と訳されることが多いが、住人は必ずしも尼僧ではなく、私有財産をもつこともできた。
 現在も30箇所以上のベギンホフが残っており、ベルギー政府から推薦された26箇所のうち、13箇所が1997年に世界遺産として登録された。現存するベギンホフを構成する建築群はそのほとんどが16〜18世紀に建築されたもので、当時の典型的な建築や都市のスタイルを見事に保存している。

 春に、ベルギー最大のベギンホフのあるルーヴェンに滞在するチャンスを得た。ルーヴェンは人口約8.9万、首都ブリュッセルの東25kmに位置し、9世紀末の文献にはすでにその名が登場する古い町である。哲学者エラスムスや神学者ヤンセニウスが教鞭をとった名門ルーヴェン・カトリック大学(創設1425年)のあるベルギー最大の大学町としても知られている。住民の4分の1が大学関係者であり、ベルギーだけでなく世界中から来た研究者や留学生とその家族が生活している。大学の校舎・関係施設は町じゅうに点在し、その多くが歴史的建造物の活用である。
 ルーヴェンのベギンホフは、ベギン会に属する女性「ベギン」の家95棟、教会、施療院などから構成され、13世紀から17世紀にかけて建設された。最盛期には200人のベギンが自給自足の生活をしていた。18世紀にベギン会の活動そのものが禁止されたため、ベギンの家は低い家賃で市民に貸し出され、スラム化が進んだ。もともとベギンは裕福な家庭の子女が多く、彼女達が建てた家は良い素材で頑丈につくられていたため、基本的な特性や価値は失われることはなかった。そして、幸運にも1963年に修復・活用を条件にルーヴェン・カトリック大学に譲渡され、ベギンの家は教授や学生の住宅として、施療院はコンベンションホールやレストランへと生まれ変わり、街ごとの活用保存が可能となった。
 一週間の滞在中、大学を訪れるゲストのために宿泊施設とされたベギンの家に泊まることができた。重々しい木のドア、太い梁の通った高い天井、レンガの積み上げられた暖炉、かつて修道衣を身にまとったベギンたちが上り下りしたであろう、急な木の階段など、中世ヨーロッパの建造物(しかも世界遺産)を満喫した。バス・トイレなどの水まわり、またキッチンは全く近代的なもので、生活上のストレスはほとんど感じられなかった。
 現在ベギンホフの住宅や宿泊施設は大学の機関が管理・運営し、大学関係者に提供されている。各々が一定のルールを守りながら、ベギンホフでの生活を楽しんでいる。早朝、ルーヴェン大学に留学中の友人の住宅(もちろんベギンホフ内の賃貸住宅)に向かって石畳を歩いていると、通りに面した小さな扉が開き、ヘルメットをかぶった背の高い若者が自転車をかついで出てきた。朝早い時間に大学へ向かうのだろうか、慣れた様子で石畳の上を軽快に自転車を走らせていった。彼らは限られた年数、このまちに生活し、お金(住居費や学費など)を落とし、その間はまちの保存活用の担い手となるのである。そして何よりもこの特殊なまちに居住したことは記憶に深く残り、まちの価値や美しさを宣伝する「大使」になっていくに違いない。最初はまるでお伽の国に紛れ込んだかのように感じたが、1週間の滞在後には私の中でもベギンホフは過去の遺物ではなく、現在の生きたまちとなった。またいつの日かあの中世のミニチュア都市を訪れてみたいと思う。

参考図書:「世界遺産フランダースのベギナージュ」田原幸夫著

修復された宿泊棟 小広場 左奥の低い建物はデザインを揃えて新築されたもの。レンガの積み方を変え、新しいものだとわかるようにしてある。

「教会通り」両側が住宅。 15世紀ゴシック様式のルーヴェン市庁舎。
手前はフォンスケFonskeと呼ばれる彫刻。左に本、右手にジョッキを持ち、自らの頭脳に知性と生きる喜びを注ぎこんでいる。

 (2004.7.8/(竹内 郁)