以下の文章はすでにフェイスブックで掲載していますが、つながっていない方々のために、若干アレンジして再掲することとしました。予定では全4回シリーズで今回は2回目となります。
2−サンクトペテルブルク
サンクトペテルブルクはバルト沿岸都市タリン(エストニア)、サンクトペテルブルク(ロシア)、ヘルシンキ(フィンランド)の3つの都市の位置を二等辺三角形に例えるなら、頂点を担い、フィンランド湾のもっとも湾奥部に位置する。人口は500万人、面積は1,431kuの大都市である。
■ サンクトペテルブルク史
サンクトペテルブルクは帝政ロシアの首都であり、水の都であり、最も美しい街とも言われている。1703年にピョートルT世(1682〜1725)がここに要塞を築いたのが始まりであり、土木工事で運河の開削、地盤の嵩上げなど、沼沢地の大改造に挑んで今のサンクトペテルブルクの都市改造を実施し、バルト海の覇権をスウェーデンから奪取して交易による繁栄を築いた。エカテリーナU世(1762〜96)の時代にロシア帝国の版図を拡大する。エカテリーナにはT世とU世がいるが、T世はピョートル大帝の妃、U世はピョートル大帝の孫ピョートルV世の妃であり、実に紛らわしい。(よって、高校時代は世界史を取らずに日本史にした。)
都市名は出世魚?のごとく、時代とともに変化している。サンクト・ピーテルブールフ(オランダ語風)→サンクトペテルブルク (ドイツ語風)→ペトログラード(ロシア語風/ドイツとの戦争/1914〜24)→レニングラード(ロシア革命でレーニンにちなむ/1924〜91)→サンクトペテルブルク (ドイツ語風/ソ連崩壊後住民投票で/1991〜)がそれであるが、第一次大戦、ロシア革命、ソ連崩壊などが改名のきっかけである。
レニングラード包囲戦(1941〜44)は映画にもなっており、ドイツ軍との戦いによる900日間の籠城・攻防は悲惨そのものであった。公式では67万人が、非公式では70〜150万人が餓死・戦死したといわれる。しかし今ではその痕跡を探すのは難しい。エカテリーナ宮殿はドイツ軍によって略奪され、破壊された。ヨーロッパでは戦禍を被った都市は、できるだけ忠実に建物等を復元している。
■ 三宮殿―エカテリーナ宮殿(夏の宮殿)、ペテルゴーフ宮殿(水の宮殿)、エルミタージュ美術館(冬の宮殿)
戦争により歴史的建物は破壊されたが、復元されて今日でも栄華を誇った往時を偲ぶことができる。特にエカテリーナ宮殿(夏の宮殿)、ペテルゴーフ宮殿(夏の宮殿で噴水と庭園で有名)、エルミタージュ美術館(冬の宮殿)は“お上りさん”と言われようとも必見である。それぞれに独自の壁面色を持っており、エカテリーナ宮殿はパステルブルー、ペテルゴーフ宮殿はパステルブラウン、エルミタージュ美術館はパステルグリーンである。そしてどこでも金が使われていて、金色キラキラ感が印象深い。
@エカテリーナ宮殿(夏の宮殿)
ここは55の部屋があり、特に琥珀の間や謁見の間が有名である。壁面を琥珀で覆う様は圧巻であり、これも24年かけて復元されたものである。謁見の間はどのガイドブック載っているように、ロシアに漂流した大黒屋光太夫が帰国を願うため、エカテリーナU世に謁見した場所で、緒方拳主演の映画でも実際にここが使われた。
Aペテルゴーフ宮殿(水の宮殿)
ここは20の宮殿と7つの公園から構成され、庭園内には噴水が150、滝が7つある。水位の高さと水量がなければ、これだけの噴水を維持することはできず、当時の技術の粋を集めたものであろう。エルミタージュ美術館(冬の宮殿)は300万点の美術収蔵品があり、エカテリーナU世がドイツから美術品を購入したことがコレクションの始まりのようだ。
Bエルミタージュ美術館
ここに入館し、絵画等を鑑賞するにはテクニックがいる。まさに「美術館の歩き方」である。大人気の美術館なので、現場でチケット買って入場するには時間がかかりすぎる。わがメンバーにはITに強い教員がいて、ネットでチケット購入し、購入証明書をプリントアウトして持参すれば別入口から入場できて、2時間以上かかる入場を20分に短縮できる。館内は案内図を持っていても居場所が不明で迷うことしきりである。よって、なかなか目的の場所に到達しないし、トイレ探し(非常に少ない)も必死になる。館内GPSガイドのアプリをインストールすれば、迷うことはほとんどない。エルミタージュ美術館鑑賞の必須の対応である。
■ 目抜き通りネフスキー大通りと運河・河川の河畔
ネフスキー大通りは旧海軍省・アレクサンドロフスキー庭園からアレクサンドル・ネフスキー大修道院に至る約4.6kmの主要幹線道路であり、エカテリーナU世時代にモスクワに通じる道として整備された。目抜き通りであるので主要な施設(ショッピング、ホテル、レストラン、専門店)は、この沿道に集中している。
ゴスチーヌイ・ドヴォール百貨店は周回して1kmあり、アーケードが設置されている。ブランド専門店はそれほど多くなく、市民の百貨店の雰囲気だ。その反対側にあるグランドパレスの中はパサージュ的で、高級ブランドショップが入店している。20世紀初頭に建てられた建物に書店「ドーム・クニーギ」が入店し、雰囲気は高級感がある。
沿道の建築物はおおむね高さがそろっている。エルミタージュ美術館(冬の宮殿)は高さが23.5mあり、これよりも高い建築物は1905年まで制限されていたようである。よって4〜5階建ての建築物がどこまで行っても続く様は圧巻である(圧巻であるが、眺め続けると食傷気味になる)。そして建物の高さがそろい、ライトアップしているので、夜景は迫力がある。
歩道にはカフェテラスが所々設置されており、ヨーロッパの雰囲気を醸し出す。当たり前の風景として、まちに溶け込んでいる。ある小街路区間では、自動車通行止めにして、完全モール化を図り、カフェテラスを設置することで、落ち着いた公共広場的な環境を整えている。ここでは道の両サイドは旧歩道までがカフェで利用され、道路中心にもカフェが設置可能であるが、詳細な設置条件を把握することができなかった。ユニークな事例は歩道に突き出した2スパン分の天蓋の上にカフェを設置していることであろう。眺めはいいだろうが、自動車騒音はうるさい。
この大通りには1つの運河、2つの河川が交差している。一つはフォンタンカ川で川幅も広い。グリボエードフ運河は北にユニークな形状をした血の上の救世主教会が河畔に立ち、この大通りからも見ることができ、ユニークなネギ坊主のデザインは遠方から見ても印象付ける。アレクサンドル2世が暗殺された場所に建設されているので、「血の上の」という名がついた。因みにもう一つ著名な教会はイサク大聖堂である。世界で最も大きな教会の一つである。今回、改修中であったため、内部には入れなかった。モイカ川は印象が薄い。
見るべきものが多いので歩いてもさほど疲れなかったが、さすがに毎日2万歩を超えると疲れる。
■ スリとのコミュニケーション
サンクトペテルブルグではスリに気をつけなければならない。通訳兼ガイドの方が、以前日本人5人を案内した際に、スリに気をつけるようにと何度も忠告していたにもかかわらず3人が被害にあったといっていた。我が視察調査団5人も一人被害に遭いそうになった。中央駅構内で最初にスマホを抜かれ、財布を盗まれそうになった時点で気づき、手で払いのけて財布は無事だったが、スマホは持ち去られた。しかしその後、スリ団のリーダーらしき者が盗ったメンバーを呼び出して、盗んだスマホを受け取り、そのスマホを買わんかと言い寄ってきた。盗まれた本人は金を支払う気になっていたが、我々の1人は「返さんかい!このドアホ」と片言のロシア語で言って、なんとか取り戻した。このやり取り、「なにコレ????」である。
私自身、ペテロバロフスク要塞(最初の街の拠点)でショルダーバッグのチャックを開けられ盗まれそうになった。気配を感じ、ふと横を見ると2人の男が立っていた。以下ボディランゲージと英語で対話。
私「ちょっと待て!! お前たちが開けたんやろ!!」
スリ未遂者「えっ?何のことでっか?最初から開いてましたで。」
私「なんか盗まれてないか調べるからちょっと待てや!」…「何も盗まれてないわ。」…「OK、問題ないわ。」
スリ未遂者「そやろ。最初から開いとったんや。盗まれるから気つけたほうがええで。」
私「なんやそれ!」
彼らは未遂に終わったがゆえに、逃走せずに、その場を立ち止まれたのであろう。
この2事例を通して、サンクトペテルブルクではスリは日常生活の一部であり、チームを組んで対応するあたりは、職人技である。盗られる方が悪いという社会では、罪悪感がないだろうし、これらの対話は成り立つのである。そうだ、「このエリアであなたの持ち物をスリます。職人芸を披露したので、盗られたものを返却するにあたり、この帽子に投げ銭を入れてください。」という大道芸にすればいい。
この内容に該当する写真は残念ながらない。撮らしてくれといっても拒否されるであろう。 |