エスノメソッドによるまちづくり
/古池嘉和景気の停滞が恒常化する様相の中で、将来に対する夢を追い求めることで生の充足感を得る時代から、いかに今、この瞬間、この日常を精一杯生きるかを問い続けなければならなくなってきた。こうした時代を生き抜く知恵は、夢を追い求める時代に育った我々にはない。退廃的な虚脱感に苛まれている我々とは対照的に、こうした時代を生き抜く知恵を持った人は元気である。例えば、我々がフィールドとする都市の盛り場を我が物顔に闊歩するコギャルなどは、こうした時代をたくましく生き抜く知恵を修得している。都市をフィールドとして研究する者の端くれとしては、こうした時代の変化に対して研ぎ澄まされた嗅覚が要求される。
だが、こうした時代にたくましく生きる人たちを全く別のフィールドで見いだすことができる。農山村である。農村や山村で日々暮らす人々の中に、将来に対して過大な夢を見なくても、現実を逞しく生き抜く知恵を持っている人に出会うことが多いことに気がついた。都市の盛り場で、肉体労働に従事するあんちゃん、クラブでインクリスに酔いしれるおねえちゃん、あるいはボランティア活動に携わる若者達と、農山漁村で日々自然相手に働くおっちゃんやおばちゃんに不思議な共通点があるような気がする。ここ数年、こうした農山村でのライフスタイルを再評価することで、都市を逆照射することが可能ではないかと感じている。
私は、今、足助町のある集落に入り、地域の人たちと一緒になって村おこしを行っている。村おこしといっても、地域の経済的な活性化ということではなく、寧ろ、心の村おこしだ。足助町は、言わずと知れた観光地である。香嵐渓が色づく季節ともなれば、多くの観光客で賑わうまちである。
しかし、私のお手伝いしている集落は、町のはずれにあり、俗に言う観光的な資源はない。私は、そこでいろんな人にであった。ある主婦の集まりのバーベキューに招かれた時のこと。そこで何気なく使われているたれ≠フ味は、今まで味わったことのないものだった。豊富な材料を実に何時間も煮込んだオリジナルのたれであることを知らされた。同時に、それぞれが持ち寄った野菜もつい先ほどまで土に埋もれていたものであった。そこには、屈託のない笑顔で談笑する人達の作り出す雰囲気にも贅沢さを感じている自分がいた。また、齢七十を超えようかと思われるお爺ちゃんと藪の中に入り、見事な枝打ちの技術のみならず、偶然見つけた蜂の子を食するように進められ、結局どちらもまねすることができず呆然と立ち竦む自分。さらには、国の無形文化財にしてはあまりにも地味でありながら荘厳なまつりに出会い、居場所なく戸惑う自分。
こうした集落に入って、一体私は何をしているのだろうか。唯一、私ができることは、恐らく「相互の気づき」というリフレクシブなことしかない。私自身、この実践的フィールドワークの中でさまざまなことに気づいた。集落の人たちとの不思議な縁と信頼が、地域とのコラボレーションを可能とすること。地域とのこうした実践的な活動こそ、地域づくりの原点だったこと。そして、それを忘れかけていたことなどである。一方、長らくの経済成長期に毒され、疲弊している集落の方も、まさにその生き方こそ成熟社会のモデルであり、そこでの生活文化こそ誇りをもつべきものであることを気づいてもらうことができただろう。
近年、我々の領域で、新たな潮流としてエスノメソドロジーが取りざたされている。長く、構造的に社会を捉えようとしていたものを、構築的に捉える方法である。つまり、社会(あるいはコミュニティ)の問題を、外部から高見に立って論じることではなく、内部に入って、同じ目線で見ることで問題を顕在化させる方法である。H・ガーフィンケル以降、一つの潮流となったエスノメソドロジー。私は今、こうした学的叡智を、生活世界の中で繰り広げられる会話や、意志決定方法、歴史や祭り、生産様式、生活文化などをきめ細かく見ながら、見えない事象を顕在化するプロセスを通じ、心の村おこしへの実践的転用を試みているつもりだ。
一方、近年、都市部で起きている様々な課題。若者を取り巻く問題。さらに環境問題、や教育問題、福祉問題、差別問題等々。こうした諸課題が充満する都市部のまちづくりにおいて、果たして何が提示できるのか。まちづくりの多様な側面の中で、一体何に寄与できるのか。方法論としてのエスノメソドロジー、なかんずくエスノメソッドの有効性も未知数である。
しかし、都市と農村、敢えてその不思議な共通点を上げるとすれば、身体性であろう。今、ここで生きているといった生の分泌を、将来の夢に求めるのではなく、日々の暮らしに求めることで感じ取る。自然と対峙するか否かは別として、情報の洪水となっている都会で生きる知恵やヒントが農山漁村の中にかすかに残っていることは着実に感じ取れる。災害や福祉などの局面で、ボランティアとして若者が流す汗と、自然と対峙しつつ糧を得るために流す農夫や漁師の流す汗は等価である。
こうした流れの中で、社会の、なかんずく都市の様々なシステムは機能不全を起こしている。日々流れるニュースでは、時代錯誤なシステムの歪みを露呈する。都市という見えにくい集合体の中で、システムの歪みを矯正することで、相互に気づきあい、新たなシステムを構築していくことができるのか。人と人とが織りなすコミュニケーティブな流体物が相手のまちづくり。構築を試みる枠組みが果たして今の生活実態に即応するのか、時代錯誤を助長するものではないのか、はたまた独りよがりな無用の産物ではないのか。こうした苦悩を抱えつつ、都市の中で新たなシステムを構築していく実践活動こそがますます重要になる。
昨今、盛んになってきたNPO活動やボランティア活動。こうした活動に主体的に関与していくことが、自らの疑問に実践的な答えを出していくことになるだろう。そして、勿論、都市、山村を問わずさまざまなコミュニティに入り込み、フィールドからの視線を大切にした実践活動の営みは続くことになる。
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