市民は自ら模索をはじめた 〜高田弘子さん 寄稿〜

まちづくりには内発的発展論が似合う

 …地球規模では話せないが、環境についての専門知識はないが…地域のことやコミュニティのこと、生態系や生ゴミのこと、できればリサイクル用品や再利用も考えたい…冬の朝、積もった雪で俳句の一つも詠んでみたい。きゅうーっと一杯飲んでシャンソンの一節を吟じたい…。

 これからの社会は「地域の生態系や文化、伝統に根ざし、主役の市民や住民自らが模索していく手づくりの社会」であると社会発展論を展開しているのは、鶴見和子先生(社会学者上智大学名誉教授)であり、社会はゆっくりとその方向に移行し始めている。

 はじめから断定しないで、可能性に果敢に挑んで開発していく。潜在能力をみつけ発展させる実践の論理である。

病気になると元気になる…忙しいと感受性を失う…。

 生き方も働き方も自分で決める。プライドで生きる。選ぶ、選ばないではなく、選ばれる側にまわった地域やコミュニティは生きる職人の世界と言える。

 あったら嬉しい、いいなぁと思う、もっと欲しくなる。これまでずっと持ち続けた欲望である。

 今までの原理や理論そして学問をはじめとして、権力のあり様は一方向にのみ考えられてきた。

 もっといろいろ考えても良かったし、良い考えは幾つもあった。多数決で決めることに公平を実感し、みんなで一つにまとまっていることや、まとまっていくことばかりに気を取られているうちに情熱を失ってしまったようだ。

 最近、女の年寄りはなぜ元気なんだろう。楽しいこと、面白いこと、遊びが好きで暮らせる。「だれか」が次の世代は引き受けてくれると思っている。男一代名は末代まで…と永久に続くと思いこんではいない。

地域のキーパーソン像ははっきりさせたい

 地域の担い手であるキーパーソンはこれまでのエリートや専門家ではない。問題解決の方法も大きく変化する。地域やコミュニティには自己処理能力が求められるからである。

 多くの他者を自分の中に持つことができる人が大切であり、これまでのように引っ張っていく人ではなく、受け入れていく人が求められる。

 多くの他者を現実のシステムの中に受け入れていくためには、システム全体を、配置や順序、順番や位置を変えてみることから始めたい。

一人ひとりが創造的に生きる姿勢が大切

 市民や住民の、一人ひとりが創造的に生きる姿を表現するためのステージが地域である。

 未来は開かれ、いろいろの可能性を選ぶことができ、偶然をも受け入れ、未来を創造する。

 内から沸き出る熱情(内発的)の高まりを、この段階を排除しないことが未来型の地域作りであり、市民社会における市民の主体性を支える理念といえる。

 日本は地域の伝統に根ざしており、資源として管理する型がある。伝統や歴史は、現代の人々が選びとって現代に表現している。世間にその世代がスパークさせてはじめて、生きた姿になる。

 つぎの時代が、地域生活の変化から生じることが先決である。

地域には「慣れている」からの脱皮

 中流意識で、中程度の生活の次に来る生活の水準といえるものは?「自然とともに発展していく地域」をつくるといった、これまでに経験のない、行政もまだ政策やシステムを持ち合わせていない。市民や住民には内から求めてやまない好奇心や知りたいという欲求がある。

 このような自発的な行為に支えられて新しい「しくみ」づくりが開始される。地域へのかかわりは、もう決まりきった参加型ではなく、自らが発案や立案に深くかかわっていく参画型のまちづくりへと移行し始めている。

 コミュニティの中には求める行為をしない「ビジター」がたくさんいる。そんな中で将来の価値が見つけられるのだろうか、と思うこともある。しかし、この与えられたコミュニティスペースで新しい流れや新しい時代のための準備をするという、未知の世界への華麗な挑戦は面白くて、胸も時めき、やめられない。

 もちろん、以前は日常的に「おじいちゃんの頃は…」「昔からこうだったよ…」「前年どおり、」「例年どおり」などの体験論に支えられ、維持されたコミュニティだった。

 これからは体験論への批判を通して、新しい目的意識と多様な価値を受け入れながら、方法論を開発する時代なのである。

 次代を担い、明日を生きるための地域生活のあり方と一人ひとりの生涯のあり方の一致点を見出していきたいものである。

コミュニティから夢を語ろう

 誰かと会える嬉しさ、何かにこだわる頑固さなど、いろいろの「ドラマ」が生まれる。一シーン一シーンを完璧に演じなくても「許しあえる」「含み込むことができる」ような、対等につき合える、対等につながることが求められる時代が来たのだと思う。

 私は何か「ファースト」にやりたい、手がけたいという人が増えた。いやいや、「ベスト」であればいいんだ、という人。それぞれの生活歴の特色は、時として同じ様な関心を呼び、時空を越えて共同体を生んだり、つくられる。呼び合うよびよせ現象が起こり、鎖のように連なるのである。社会の単位は広域に、巨大になりグローバル化の方向を示している。大きくなることへの準備とともにもう一度「スモール」を単位として考え方が見直されている。ちょっとした試みができて、フィードバックも容易に、修正も手軽にできる環境が「スモール」なコミュニティにある。

 小さな、素朴な、思いがけない、ちょっとしたアイディアが大切に育てられて「まちづくり」が生き姿を出現させる。

 名もなく、普通のように見えた人が自分を印象づける時代になってきた。

 だれもが「創設者」であってよい、だれもが「まちのアイドル」であって欲しい。

情報発信はコミュニティから

 人間が得意とすることは「パターン認識」「文脈を把握すること」「モノの評価」だといわれる。これとコンピューターがドッキングすると、時空を越えた共同体としての機能は強化される。

 このために出会いから別れまでのドラマが必要になる。「いつも隣に座る町内会長さんの家ではどんな公園の絵が出てくるのかな」「PTAの役員さんの家までの地図はどんなふうに描いてくださるのかな」など、一人ひとりの事については知っているようで知らないのである。

 「こんなに楽しいところがありますよ。」「木立や花が美しいお宅。」「この人と話すと楽しい。」「あの人はパンづくりの名人。」「オカリナの演奏が素敵よ。」「いちごのジャムはいつもお隣のおばあちゃんから。」「今日は坊主だったのでスーパーで魚買ったよ。」など。

 ちょっと集まっただけで、この地域のかもしだすドラマのステージが見えてくる。コミュニティの風がここちよい。

 そういえば、「ここへ引っ越してきた頃の地図はありませんか?」「年代を追って地図を見ましょう。」「私も長くなりましたね。このコミュニティで暮らしはじめて。」「新しく越してこられたあの方に早くお会いしたいですね。」「グループ、集まりができました。是非おいで下さい。」などなど、つきません。

 情報発信のほんの少しの事例です。

でも、いつも計画を立てて、いろんなことを考えてくれる、考えている人がなくてはならないし、ほしい(いる)。

 だれもが思っている。いつも恋人捜し。いつも先生捜し、行政捜し、コンサル捜し。……だれもいないよ!

 自分でやっちゃおう!一人じゃなくて皆でアイディア寄せてやろうよ!何とかなるよ。特異な能力は後からついてくる。と思う。

 今、頼りになるのは、「だれ」。

 頼りにされて困る時もある。頼って欲しい時もある。頼られてコミュニティのメンバーになれる。

 タイミングがはずれたり、うまくいったりもする。スリリングだが、いつも緊張できる楽しいことがまちづくりだ。

 人にやらせることもない、自分たちでやってみよう。

 と、呼びかけ役のまちづくりの助っ人の気持ちです。

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