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津は観光地になれるか?
 日本一短い町村名である津(地元では「つぅ」と呼んでいる)市は、昨年(2006)1月1日に10市町村が合併して新生津市(人口約30万人)が誕生した。三重県の県庁所在地であるため、商業・業務の集積はあるが、中心市街地の活性化が課題となっている。そんななかで、津は歴史・文化の宝庫であり、津も観光に力を入れている。
 昨年11月に白壁アカデミアの会員で津の歴史的町並み等を現地交流事業の一環で視察した。これまでバス1台で日帰りできる地域には殆ど出かけ、三重県では亀山・関や伊賀上野、松坂、桑名、鈴鹿さらには伊勢(おはらいまちやおかげ横丁、河崎町)と多くの地を訪問したものの、津は現地交流事業66回目にして初めて行った地域となった。つまり、津は歴史・文化観光の対象としてイメージされない都市の一つである。しかし、改めて調査し訪問するとなかなか面白い地域である。

 歴史的に古い津観音(恵日山観音寺)は、奈良時代初め709年の開山、浅草・大須とならんで日本三観音の一つであり、室町時代には将軍足利義教が勅命を奉じ三重塔を建立、豊臣秀吉が出陣の際に祈願を怠らなかったと言われている。太平洋戦争により41の堂宇が消失したが、現在多くが再建され、その象徴として純木造の五重塔が平成13年に建立された。そしてなによりもご住職の話が面白い。

 もう一つは津城である。織田信長の弟信包(のぶかね)によって築城された津城は、伊予藩から転封(1608)した藤堂高虎によって大改修が行われた。単に西側大坂への防御を強化するだけでなく、上野城と津城を伊賀街道で結び、また津城下町に伊勢街道を引き込むなど、物流にも取り組み、近世都市の「くにづくり」の雛型となっている(参考文献:江戸時代の設計者−異能の武将・藤堂高虎−)。現在では、本丸・西の丸と内堀・石垣の一部を残すのみとなり、復興された三層角櫓が当時を彷彿とさせる。ボランティアガイドによる解説で往時の面影を心の中で復元していくのだが、城址全体が現物により復元されれば、よりイメージが沸く。市に訊くと今のところそんな計画はないそうである。
 最後に訪れたのは、一身田寺内町である。ここは真宗高田派専修寺(無量寿院/1469〜1487年建立)を中心に環濠と土居により囲まれた寺内町で、環濠が今日まで完全に残っている珍しい場所である。国の重要文化財で専修寺境内最大の御影堂は平成20年まで平成の大改修のため見学は出来ないが、隣接する如来堂も重要文化財であり、これだけでもその規模に圧倒される。境内の雲幽園とそこに建つ安楽庵は別世界に誘ってくれる。ここでの解説は若い僧侶が担当した。説教や講話をするだけにその話術は我々にも参考になる。

 一身田寺内町の街並みは一部残されており、往時の雰囲気を醸し出している。その一角に豊田式織機(1907年操業)・豊和工業(豊田式織機の後継、1945年創業)の織機で今なお操業している工場がある。当時の布の風合いはこの織機でしか出せず、馴染みやすさが受けているとのこと。こんなところにも豊田佐吉の痕跡がある。ここにも一身田寺内町ほっとガイド会があり、寺内町を丁寧に案内してくれる。

 これ以外にも多くの観光資源があるが、時間が無く回り切れていない。今回、てんむす、いちご大福、たいやき、味噌かつ、ベビースターラーメン、肉まん・あんまんの発祥の地であり、名物がうなぎであることを恥ずかしながら初めて知った(「発祥」というのは、店によって色々言い分があるのだろうが)。

 どの地域にも人が生活している限り、独自の歴史・文化はあるはずである。しかし、うまく掘り起こせなかったり、それが惹きつけるだけの物語を描けなかったり、仕掛けがなかったりしている。先の「発祥の地」も名古屋まで伝わってきていない。

 そして、その地域の歴史・文化を来訪者に伝えるのが、地域の人々である。地域の生活者が地域に対して誇りを持てないで、誰が迫力を持って伝えられるのであろうか。ガイドボランティアの活動は朴訥ながらも気持ちは伝わってくる。
津は「興味津々」というタイトルで観光ガイドブックを作成している。が、現状は既述の通りである(津出身者はもっとアピールを)。他の地域も同じ様な問題を抱えているのであろう。地域再生や都市再生には経済的側面が強く出るきらいがあるが、文化的側面をもっと強調すべきであると思っている。


津城の内堀と石垣



津観音の五重塔


専修寺の雲幽園

一身田寺内町にある老舗薬局内の邑田資生堂の看板


一身田寺内町にある繊維会社の現役織機

一身田寺内町の館にある街並み模型

(2007.1.8/井澤知旦)